空手のこと(間合いとか相手の動きとか)
空手の話です。
個人的なまとめなど。
3/13(土)は昇級審査会だったのですが僕は先週の土日に仕事が入ってしまい審査会の申し込みが出きなかった。
この日のために1月から準備してたのに残念である。
次回の審査会は9月(たぶん)。せっかくなので今時点の自分の組み手の課題とやろうとしてることをまとめておく。
空手の話です。
個人的なまとめなど。
3/13(土)は昇級審査会だったのですが僕は先週の土日に仕事が入ってしまい審査会の申し込みが出きなかった。
この日のために1月から準備してたのに残念である。
次回の審査会は9月(たぶん)。せっかくなので今時点の自分の組み手の課題とやろうとしてることをまとめておく。
ちょっとまえのことになりますがエントリ書きます。
11月14日(土)〜15日(日) 東京・国立代々木競技場第二体育館で行われた第3回空道世界選手権に行ってきました。

空道について説明しておきますね。
国際/全日本空道連盟理事長、大道塾代表師範である東孝塾長が創設した徒手による打撃系総合武道「空道(くうどう)」とは、現実の闘争を想定し、顔面を含めた突き蹴りによる加撃さらには、投げ・絞め・関節技による攻撃を認めながらただ己の強さだけを追求するのではなく武道としての「社会性」、指定防具やルール整備による競技としての「安全性」を兼ね備え、又観る側のわかりやすさをも追求した「武道スポーツ」として2001年、2005年の世界大会を経て世界各地にブームを巻き起こした21世紀生まれの“新しい武道”です。
今回行われたのは4年に1回の世界大会です。
続きを読む…
6年前の記事なんだけどこれは泣けますね。
復活した伝説の格闘家、沈黙の十年の意味に迫る 「長田賢一、北斗の涯を越えて」 – [K-1・PRIDE・格闘技]All About
大道塾の伝説の名選手 長田賢一の記事です。
長田賢一についてはこちら。
空手団体大道塾(現在は着衣を前提とした武道「空道」になっている)に所属する選手で、1980年代半ばから90年代前半にかけ、大道塾の北斗旗空手道選手権大会無差別級を幾度も制し、その圧倒的なKO(一本勝ち)率の高さにより「ヒットマン」と呼ばれた。大道塾では安全のためポリカーボネート製のスーパーセーフを顔面につけて試合をするが、それを破壊してしまったという逸話も残っている。
長田先輩の現役時代から10年の沈黙期間を経て2003年の大会で試合に復帰するまでを、当時のフルコンタクト空手の歴史を背景に書かれています。
* 正道会館が目指す[プロ格闘技(K1に代表されるようなプロ競技空手)]
* 大道塾が目指す[社会体育(生涯を通じて出来る武道としての空手)]
この2つの空手団体の対比がとても興味深いです。
80年代中盤から90年代初頭というのは、空手家が顔面殴打の技術を導入して、大きくスタイル変化を迎えようとしていた時代である。一方には、正道会館を中心にグローブを使用して、キックボクシング的なスタイルを導入すべきだという風潮があり、佐竹雅明、後川聡之、金泰泳らスター選手を擁した正道空手の主張は大きく格闘技雑誌の誌面を支配するようになっていた。「生産性のあるプロ格闘技化」を主張する石井館長の言動は刺激的であり、革新を求める時代の空気にぴったりとマッチしていたともいえるだろう。
その正道グローブ空手思想の対象軸に置かれたのが、大道塾であった。<スーパーセーフ(面)か? グローブか?>武道空手の極北を争う思想戦の様相を呈した世論の高まりは、お互いが望むと望まざるとに関らず、同じ極真をルーツにもつ二つの空手団体を対立の構図で捕らえるようになっていく。
こうした流れの中、石井館長はヘビー級のエースとして全日本大会で三連覇を飾り頭角を現し始めていた佐竹雅明を、90年6月の全日本キック武道館興行に派遣。当時、UWFの前田日明との異種格闘技戦などで名前を売ったドン・中矢・ニールセンとのキックマッチに送りだした。まだグローブ技術もほとんど持たない若干24歳の佐竹ではあったが、本来反則であるバッティングをも含む、空手家らしい気迫に満ちた闘いで、佐竹はニールセンを二分足らずで撃破。格闘技界の寵児にのし上がったのであった。
実は、ドン・中矢・ニールセン戦に最初にオファーされていたのは、佐竹にではなく、長田だったらしい。どういったいきさつでドン・中矢・ニールセン戦を断ったのか明らかにされていません。
佐竹はこの試合のあと格闘技界の寵児となり、プロ格闘家、K1へと格闘技界の桧舞台へと踊り出る。
一方、長田は、「正道会館vs大道塾」の対立構図を煽り、佐竹VS長田の直接対決を企てようとするマスコミに疑問符を突き付け徐々に試合の表舞台からフェードアウト。徐々にマスコミも格闘技界からも忘れられた存在になっていく。
その間、佐竹はK1のリングで活躍。一時は看板選手として活躍するがパンチドランカーの症状が出てもリングにあげさせる正道会館に不信感をもちK1を引退、正道会館を脱会。以後は総合格闘技、プロレスに活躍の舞台を移すが怪我に苦しみ最後はひっそりと引退しプロ格闘家としてのキャリアを終えることになる。
当時競技の頂点に立っていた長田が、正道会館やK1の提唱するグローブ空手の流れに合流していたら、おそらく価値観の衝突によって大道塾や北斗旗は、今のような競技としての完成を見ることは出来なかったと思うのである。文化でも政治でも宗教でも、対立する価値観が接触すれば、そこには衝突が生まれ、いずれかが一方を蹂躙しきるまで、永遠に対立し続ける構図が生まれる。<グローブとスーパーセーフ>の問題しかり、<プロ化と社会体育>の問題しかり、全く正反対のベクトルをもつ主張をもった両団体が具体的に【対抗戦】という構図で向かい合えば、お互いにお互いを潰しあう生存競争に突入せざるをえない。当時のファンは、そしてマスコミはそうした衝突を無責任に期待していたし、何かの歯車が狂っていれば、実際その衝突は実現してしまったかもしれない。
だが、エース長田の沈黙によって、この対決は永遠に不可能となった。その効用を長田自身が意識していたのか居なかったのか、それは知らない。だが、正道と K-1は大道塾とのニアミスを経て、その矛先をキックボクシングやプロレスという、より異質なスポーツとのイデオロギー闘争に活路を求めていくことになる。大道塾は大道塾で、二卵性双生児のようなイズムから産みだされた総合格闘技UFCとのショック療法的な邂逅を経て、再度内部の充実へと軌道を修正。「空道」という武道的完成形の概念を見出したのち、2001年には初の世界大会開催という大輪の花を咲かせる事に成功している。もし、長田の沈黙が無ければ、その体力は外部とのいたずらな衝突に消耗させられ、決して今のような結実を見なかったとおもうのだ。
大道塾は、のように「実戦性と安全性」といった”社会体育”を目指す団体です。
もし、このとき長田が表舞台で戦ったならば、大道塾はまったく違ったカタチになっていたでしょう。
沈黙にはいった頃、長田賢一は28歳。選手として一番脂がのっているときです。
選手として一番いい時期にあえて沈黙を選んだのです。
長田が「武人」と呼ばれるゆえんはここにあります。競技としての空手ではなく「武道」としての空手を選んだのです。
その長田先輩が2003年、10年の沈黙を経て試合に復活したのです。
後輩や生徒に自分の空手を残すために。
もう、なんというか泣けます。まじカッコいいです。
K1やDreamに出場してスポットライトを浴び観客を沸かせるだけが格闘家だけじゃないです。
武道を追求するというのも格闘家の生き方です。
こういうスゴイ格闘家がいることを知っていただければと思います。
(この映像、なぜかBGMがX。なんともアレですが全盛期の長田先輩も出ている貴重な映像なのでぜひ観てください)
三沢光晴選手が亡くなった。
急すぎて言葉も出ませんでした。
信じられません。
僕が一番熱心にプロレスを観ていたのは90年頃。
天龍源一郎が全日本を去って、看板選手がジャンボ鶴田だけになってしまった頃です。
ジャンボ鶴田に対抗するライバルとして全日を盛り上げるために白羽の矢を立てられたが三沢選手でした。
しかし当時はだれが見ても当時最強を誇るジャンボ鶴田と張り合うに三沢はまだまだで、だれの目からみても「全日本、もうダメだな」、「こんなカードで良い試合になるはずがない」、「やっぱり天龍くらいの大物が来ないとダメだね」と思われていた。
しかし三沢は不屈の闘志で裏切ってみせた。
三沢がはじめて鶴田に勝ったときの感動は忘れられない。
若林アナウンサーが感極まって「み、三沢が、。。三沢が勝った~!三沢が勝った~!!」と声を裏がえさせた名実況を思い出すと今でも心がグッと熱くなる。
川田や小橋も三沢の活躍に引っ張られるように成長し、あの頃の全日本は異様な盛り上がりだった。
毎回ミラクルな何かがリングにあった。毎回ドラマチックな感動があった。
そんな三沢選手が亡くなってしまった。
なんだか自分の中で確実に何かが終わってしまったような気がしています。
あの頃の熱いものを感じさせてくれる人がもういないというのは本当に悲しいです。
三沢選手、僕が今でもプロレスが大好きなのはあなたのおかげです。
ありがとう、そしてさようなら。
空手の試合に出場しました。8ヶ月ぶりの試合でした。
本当は写真が用意できてから結果報告しようと思ったんだけど、そうすると時間かかって結局ブログに書かないのでとりあえず書きます。
てかブログに試合の事書くのは初めてだ。